過去のコラム

裸の場所

<TOTO通信・1999 No.1 巻末エッセー:気持ちが飛び出す場所>

 私は風呂が嫌いである。入るまでかどうも面倒でたまらない。晩飯食べてビール飲んで良い気分になっているのに、見たいTVもあるのに、インターネットもやりたいし、もう眠くなっても来ているのに、これから服を脱いで身体まで洗うと考えるとどうも面倒になる。気持ちの転換が下手なのかも知れない。ブルーマンデーみたいなものだ。

そういえば、昔から新しい事を始めるのが非常に億劫であった。以前浪人していた頃、それはレンツの法則と言うのだと予備校の物理の先生に習った事がある。先生日く、「自然は原因を否定する」。止まっている石は止まりたがるし、飛んでいる石は飛ぴ続げたがる。何事も今ある状態から別の状態に動き出すには大変なエネルギーか必要なのだそうで、私の処世訓にもなっている。

バスルームと言えば、もう15年も趣味で合唱をやっているのだが、思わず風呂場で歌っでしまう癖がある。家の中のどの部屋でももちろん屋外ても、なかなか声を出せる場所は無い。風呂に居ると、知らぬ間に閉ざされた世界だと勘違いをしでしま うのだろうか。本当に思わず歌い出す。また、歌うだけでなくいろいろな言葉を発したりもしてしまう(奇声だったりする事もある)。今仕事で問題になっている事 や、昨日の飲み会での失言など、その時点で頭の奥の方にあり忘れた気になっていても、実は結構気になっている事などが、シャンプーをしなからもシャワーを浴ぴながらも、直接声帯に働いて声となってしまうらしい。

もしかしたら、住宅には2種類の空間かあるのかもしれない。家族の集まる場所(服を着て生活する場所)と裸の場所。いつも澄ました顔で格好つけていたいタイプ の人間にとっては、否応なしに肉体や精神をむき出しにされる風呂場は、いつまで経っても取っ付きにくい不条理な空間である。だが、湯船に浸かって天井を眺めていると、知らないうちに声と一緒に気持ちまでが飛び出してしまう不思議な作用には、内心脱帽してもいるのだ。


◆要するにものぐさなだけですかね。でも、住宅をnLDKみたいな室名の組み合わ せとして考えるよりも、「心が裸になれる場所」と「心が服を着ている場所」のふたつの場所として考えてみた方が、生き生きとした生活の場所が作れるかも 知れないですね。

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